オウンドメディアの終焉
色々あって調べていたので少しまとめっぽい感じで。
さてまだ記憶に新しいコカ・コーラパークの終了などもありますが。
オウンドメディア自体がやはり厳しいものになりつつあるんだろうなぁと思ったのでそのあたりの話を、別の切り口から。
現状。
実際に、コカ・コーラパークの検索数をgoogleトレンドで見てみると、こんな。
まぁ下がっております。
その他のオウンドメディアも色々データ見てみたのだけど、(詳細は内緒)
大体こんな感じか、そもそも数が少ないか、といった感じ。
なぜ苦戦するのか。
まぁ予想はつくと思うんですけど、「メディア消費時間」自体は増えてるんですよね。
http://www.media-kankyo.jp/wordpress/wp-content/uploads/HDYmpnews20160620.pdf
PCを使う時間も、当然スマホを使う時間も、増えている。
ユーザーがwebメディア自体に触れている時間は増えているんですよ。
なのに、企業のオウンドの消費時間は減っている。
まぁここまで書けばそりゃそうだよね、って話になるんだけど。
何が増えてるって、キュレーションメディアだったりバズ系メディアだったりスマホゲームだったりSNSだったりサブスクリプション系動画サイトだったり、
そういうのが増えてるわけですよね。
そういう楽しいのが増えてくると、企業のオウンドメディア、特に情報系メディアって、
そういう楽しいものだったり、ガッチリSEO対策されたハウツーサイトだったり、
そういうのに「勝たなければ」ならなくなるのですよね。
目玉の可処分時間は限られているから。
ガッチリSEO対策されたサイトなんかと戦おうと思ったら、
特定の企業に偏ったコンテンツだとやっぱ難しいですよね。
コカ・コーラのサイトでペプシの新フレーバーの話とかできないわけですから。
やっぱ企業の公式サイトで出せるコンテンツには限りがあるんですよね。
そうすると、個人のブログだったり弱小メディアの方がそういうものには強かったりする。
じゃあどうやって戦うのか?
恐らく検索頼りだったりすると結構厳しい戦いを強いられるのかな、と思うんですよね。
検索頼り=ハウツーなどのコンテンツ。
なので、ターゲット絞ったソーシャル頼りのコンテンツの方がまだ芽があるかな、という気がします。
サイボウズ式の記事とか個人的によく読むけど。
ソーシャルはSEOに比べると遥かに対策がしにくいので、逆に言うと、
コンテンツ量が多ければ運良くバズる事がある。
とは言え「運良く」にも限界はあるので、
結局は「メディア運営」というレッドオーシャンで戦う覚悟を決めて、
それなりのリソースを投下し、意味のある、使えるコンテンツをたくさん作って当てるしか無いのだろうな、という感じ。
しかもコンテンツ当てても商品購買に結びつくのか、は別の話なので、
コンテンツを当てれば良いだけのメディア事業者より更にハードルは高い。
メディアが本業ではない企業に、そこに裂くリソースが果たしてどれだけあるのだろうね。
大半の企業は、マーケ予算だけだとROI合わないだろうなぁ。
なぜあの人の解決策はいつもうまくいくのか?
なぜあの人の解決策はいつもうまくいくのか?―小さな力で大きく動かす!システム思考の上手な使い方
- 作者: 枝廣淳子,小田理一郎
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はい。
色々あってブログやめようと思ったりとかもしたんだけどまぁ続けます。
色々あって読まされた本。
本のタイトルがあんま本格的なビジネス書っぽくないカジュアルさがあって何か微妙な気はしたんだけど、
中身はシステム思考に関する本。というかシステム思考で使う因果ループの解説本。
フレームワーク大好きっ子には向いているのかもしれないけど、
僕はそうじゃないので何かツッコミどころ多いなぁと思いつつ読んだ感じ。
システム思考とは何か、という根本は多分この本だけではわからないと思うんだけど、
思考を広げながらまとめていくツールが欲しい、という人には良いかもしれないです。
コミュニケーションにも向いてる、というような事も書いてあるんだけど、
相手がこのフレームを知っている前提で一緒に作り上げていくプロセスには価値があるかもしれないけど
フレーム自体を知らない人に説得材料として使うのは微妙かもしれないです。
まぁこれはどんなフレームワークにも言えるけど。
個人的に、こういうフレームワークとかツールに依存するのはあまり好きではないのだけど、
その中でも比較的使いやすい&奥が深めのフレームかなぁと。
ただし、これを読んでシステム思考がわかった気になったら多分だめなやつだろうとは思う。
あと当然だけどこのフレームを使った成功例が出てくるんだけど、
フレームワークなんていうのはそれ以上に失敗例を量産しうるので安易に飛びつかないスタンスが大事ですね。
僕の元上司同士の言葉だけど、
本部長「俺昔、フレームワーク100個くらい覚えたけど全部忘れたわ」
CSO「俺は1000個覚えて1000個忘れたわガハハ」
みたいな会話があったという話もあってですね。
まぁそういう類のツールの中の、比較的、相対的に良いものの一つという前提で、
読んでみる価値はあるかもしれない。
桃太郎は悪人。
なんか今更一ヶ月くらい前のツイートに反応があったので。
最近何箇所かで刑務所に関する記事とか番組とか見てて思ったんだけど、日本人って欧州とかに比べるとすごく懲罰的発想が好きなのかなぁと。更生的発想よりも懲罰的発想が先に来るというか。なんでなのか考えてたんだけどたぶん桃太郎のせい。他人に罰を与えると自分が幸福になるストーリー。
— 鳴海 愁 (@shoohnalmy) 2016年7月21日
このツイートに対し、勧善懲悪の何がいけないのか、という反応があったのですね。
まぁその人のツイート追ってたら明らかにその人は罰される側じゃないのって感じだったのですけど。
ということで勧善懲悪の危険性を少し。
善悪の定義
まず、正しく勧善懲悪を行うためには善悪の定義が必要になるけれども、
それは誰が決めるのか、という問題は必ず生じるわけですよね。
ISは自らの行為を善だと思っているし、
先日の相模原障害者施設大量殺人の犯人も自分を善だと思っていて、
彼らは勧善懲悪だと思いながらこれらの行為を行っているわけです。
オウムも然り。
USには今でも原爆を落としたのは戦争を終わらせるための善であったと思っている人がいて。
別にそういう"凶悪な"ものでなくとも、
既存の業界を守るために民泊を禁止してみたり、
既存の業界を守るために白タクを禁止してみたり。
人によって善悪の価値観が変わる事例なんて小さいものから大きいものまでたくさんある。
善悪の価値観自体は主観的なものに過ぎないので、
それを元にして法を作ったり人を裁いたりするのは危険だと思うわけです。
万人にとって正しい善悪などは存在しないのだ。
私考
というだけだと単なるどっちつかずのふわっとした話で終わってしまうので少し主張。
私の考えとしては短絡的な善悪ではなくもう少し高いレイヤーで善悪を定義するのが妥当と思っていて。
よく話題に上がる知恵袋。
この考え方に従うのがしっくり来るかなあと。
要するに、より多くの人類、もしくは人以外の種も含めて保存していく方法を模索する、
というのが人間らしいかなぁと思うわけです。
そう考えると、例えばISの理屈で非イスラムの人類をむやみに殺害するのは悪である、という定義ができる。
この定義の上で、より多くの種を保存するために制度としての死刑や安楽死/尊厳死に関しては議論の余地はあるとは思っております。
ただしこれは少数の犠牲はやむを得ない、という考え方に基づいているので、
犠牲を減らす事ができるのであれば減らす努力は必要であろうと。
人間に限った話でなく肉食なんかについても同様。
どっちの選択するのがより多くの種を保存できるか、というのは
哲学の議論ではなくモデリングの議論になるのでひとつレイヤーを落とせるであろう、と。
桃太郎の悪
ということで、大分話がずれてきたので、桃太郎の何が悪いかという話に戻ると、
- 鬼退治は私刑である
という一点に尽きるかな、と思うわけです。
罰を与えるには相応の理由と議論が必要であり、
相応の理由と議論が行われれば相応の葛藤が生まれて然るべきだと思うのです。
それもなく、あいつらが悪い、罰を与える、わたしは幸せ、
という主観の3段階だけで正義を語るのは、
道徳的に現代社会に相応しくないのではないかなぁと思う次第でありました。
現代風にするなら、鬼と交渉の上で共存をはかるストーリーが良いかもしれない。
つまらなそう。
共存をはからないまでも、
例えば鬼から姫的な人を守るシーンを 入れたあとで倒すと
ハリウッド映画っぽくなって良いですね。
なんの話だ。
でもハリウッドで映画化されたら絶対にそういうシーン入る。
最後は金銀財宝を手に入れる桃太郎ではなく姫とのキスシーン。
どうでもいい。