桃太郎は悪人。
なんか今更一ヶ月くらい前のツイートに反応があったので。
最近何箇所かで刑務所に関する記事とか番組とか見てて思ったんだけど、日本人って欧州とかに比べるとすごく懲罰的発想が好きなのかなぁと。更生的発想よりも懲罰的発想が先に来るというか。なんでなのか考えてたんだけどたぶん桃太郎のせい。他人に罰を与えると自分が幸福になるストーリー。
— 鳴海 愁 (@shoohnalmy) 2016年7月21日
このツイートに対し、勧善懲悪の何がいけないのか、という反応があったのですね。
まぁその人のツイート追ってたら明らかにその人は罰される側じゃないのって感じだったのですけど。
ということで勧善懲悪の危険性を少し。
善悪の定義
まず、正しく勧善懲悪を行うためには善悪の定義が必要になるけれども、
それは誰が決めるのか、という問題は必ず生じるわけですよね。
ISは自らの行為を善だと思っているし、
先日の相模原障害者施設大量殺人の犯人も自分を善だと思っていて、
彼らは勧善懲悪だと思いながらこれらの行為を行っているわけです。
オウムも然り。
USには今でも原爆を落としたのは戦争を終わらせるための善であったと思っている人がいて。
別にそういう"凶悪な"ものでなくとも、
既存の業界を守るために民泊を禁止してみたり、
既存の業界を守るために白タクを禁止してみたり。
人によって善悪の価値観が変わる事例なんて小さいものから大きいものまでたくさんある。
善悪の価値観自体は主観的なものに過ぎないので、
それを元にして法を作ったり人を裁いたりするのは危険だと思うわけです。
万人にとって正しい善悪などは存在しないのだ。
私考
というだけだと単なるどっちつかずのふわっとした話で終わってしまうので少し主張。
私の考えとしては短絡的な善悪ではなくもう少し高いレイヤーで善悪を定義するのが妥当と思っていて。
よく話題に上がる知恵袋。
この考え方に従うのがしっくり来るかなあと。
要するに、より多くの人類、もしくは人以外の種も含めて保存していく方法を模索する、
というのが人間らしいかなぁと思うわけです。
そう考えると、例えばISの理屈で非イスラムの人類をむやみに殺害するのは悪である、という定義ができる。
この定義の上で、より多くの種を保存するために制度としての死刑や安楽死/尊厳死に関しては議論の余地はあるとは思っております。
ただしこれは少数の犠牲はやむを得ない、という考え方に基づいているので、
犠牲を減らす事ができるのであれば減らす努力は必要であろうと。
人間に限った話でなく肉食なんかについても同様。
どっちの選択するのがより多くの種を保存できるか、というのは
哲学の議論ではなくモデリングの議論になるのでひとつレイヤーを落とせるであろう、と。
桃太郎の悪
ということで、大分話がずれてきたので、桃太郎の何が悪いかという話に戻ると、
- 鬼退治は私刑である
という一点に尽きるかな、と思うわけです。
罰を与えるには相応の理由と議論が必要であり、
相応の理由と議論が行われれば相応の葛藤が生まれて然るべきだと思うのです。
それもなく、あいつらが悪い、罰を与える、わたしは幸せ、
という主観の3段階だけで正義を語るのは、
道徳的に現代社会に相応しくないのではないかなぁと思う次第でありました。
現代風にするなら、鬼と交渉の上で共存をはかるストーリーが良いかもしれない。
つまらなそう。
共存をはからないまでも、
例えば鬼から姫的な人を守るシーンを 入れたあとで倒すと
ハリウッド映画っぽくなって良いですね。
なんの話だ。
でもハリウッドで映画化されたら絶対にそういうシーン入る。
最後は金銀財宝を手に入れる桃太郎ではなく姫とのキスシーン。
どうでもいい。